大帝と呼ばれた皇帝コンスタンティヌス

Statua colossale di Costantino testa ローマ史

 世界の歴史に大きく影響を与え、大帝と呼ばれたコンスタンティヌス(コンスタンティヌス1世)についてのページです。

 コンスタンティヌス以降、古代ローマは終り、中世へと進んだと言う考え方もあり、ヨーロッパ史の分岐点となった皇帝でした。

1.コンスタンティヌスの時代と出身地

(1)軍人皇帝時代

 3世紀にはローマ帝国のまとまりが崩れ始めます。各属州の軍団が皇帝を擁立するようになり、短期間に多数の皇帝が即位しては殺害されるという時代になりました。この時代を軍人皇帝時代と呼びます。

(2)四分割統治 テトラルキア

 そんな混乱から秩序を取り戻そうとした仕組みが、ディオクレティアヌス帝が行った国を4分割して統治する四分割統治(テトラルキア)です。四分割統治は、東方と西方に正帝と副帝を置き、各帝は夫々自らの軍隊を有して、担当地域を守備することとしました。

 284年 ディオクレティアヌス帝即位
 286年 正ディオクレティアヌス帝、マクシミアヌスを西方地域の共治帝とする
 293年 四分割統治(テトラルキア)開始
  東方:正帝-ディオクレティアヌス 副帝-ガレリウス
  西方:正帝-マクシミアヌス    副帝-コンスタンティウス

(3)軍人皇帝の出身地

 ローマ帝国では、3世紀半ばになるとバルカン半島出身の軍人皇帝の時代が続きます。268年に即位したクラウディウス・ゴティクス(在位268年~280年)に始まりウァレンティアヌス2世(在位375年~392年)迄の約130年間は、大半がバルカン半島の中北部のローマ属州パンノニアとモエシア(現在のクロアチアやセルヴィア)の出身でした。パンノニアとモエシア属州は、分割され、夫々上下パンノニア、上下モエシアとなりますが、ドナウ川に面しており、川向こうのイラン系サルマティア人やゲルマン人の侵攻をしばしば受ける地域でした。一方で、この両属州は帝国の幹線道路がいくつも走る要衝で、上下パンノニア・上下モエシアには各四個軍団と、ローマ帝国全三十個軍団の内、この地域だけで八個軍団が配備されていました。そして、両属州は、軍の駐屯地を中心に発展していったのです。

左の赤く丸で囲った部分がパンノニアとモエシアです

出典:
新詳世界地図
浜島書店

 今回の主役コンスタンティヌス1世もバルカン半島の上モエシア属州ナイッスス(現セルヴィアのニシュ)出身でした。

2.コンスタンティヌスの生涯

(1)誕生から父のコンスタンティウスのもとへ

 273年2月27日(※)、コンスタンティヌスは、後の西方正帝のコンスタンティウス(コンスタンティウス1世)と、居酒屋の娘とも伝えられる母親ヘレナとの間に生まれます。
 ※:誕生年には諸説あります。

 コンスタンティウスは中央機動軍の将校として各地を転戦していたため、コンスタンティヌスは10代前半まではナイッススで母親に育てられました。その後、コンスタンティウスの本拠地(現在ドイツのトリーア)に移住したものと考えられています。

 293年コンスタンティウスが西方副帝になると、20歳頃のコンスタンティヌスは東の正帝ディオクレティアヌス帝の下に送られます。事実上の人質であったものの、 見習い将校の身分で、ディオクレティアヌス帝及びガレリウス帝の中央機動軍の一員として従軍していました。

 コンスタンティウスが西方副帝となったことにより、西方正帝のマクシミアヌスの娘テオドラと結婚することとなり、離縁した妻とその息子をそばに置いておくことができないため、コンスタンティウスがディオクレティアヌスに頼んで、2人を預かってもらったとも考えられています。(四分割統治テトラルキアにおいて、副帝の条件として正帝との婚姻関係を結ぶこととされていました。)

 298年:ガレリウスのもとでペルシアとの戦争に従軍
 299年:ガレリウスのもとでドナウ川流域での戦争に従軍
 303年:ディオクレティアヌス帝とともにニコメディアにおり、
      キリスト教大迫害の正にその場にいました。
 305年:ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の退位により、
      父コンスタンティウス1世が正帝になります。

 305年:ガレリウスの許可を得て、ブリテン島の父の病気見舞いと称してコンスタンティヌス1世のもとに走ります。そのとき、ガレリウスの心変わりを予測したコンスタンティヌスは、急ぎ宮殿を出、追っ手を拒むべく、街道沿いに設置されていた駅停の早馬の足を切りながら、逃避したと伝えられています。

(2)コンスタンティヌスの即位と四分割統治(テトラルキア)の崩壊

【305年当時の四分割統治】
 西方:正帝-コンスタンティウス  副帝-セウェルス
 東方:正帝-ガレリウス      副帝-マクシミヌス・ダイア

 306年7月:コンスタンティヌスがブリテン島の父の下に辿り着いて間もなく、コンスタンティウス1世は亡くなります。直ちに、コンスタンティウス1世麾下軍隊はコンスタンティヌスを正帝として宣言します。(当然、コンスタンティヌスの意を受けて扇動した者がいたと考えられています。)
 ディオクレティアヌス帝の後任の東方正帝ガレリウスは、内乱を恐れ、やむを得ずこれを認めますが、西方正帝とはせず副帝とし、西方正帝には副帝だったセウェルスを昇格させました。

【306年当時の四分割統治】
 西方:正帝-セウェルス  副帝-コンスタンティヌス
 東方:正帝-ガレリウス  副帝-マクシミヌス・ダイア

 コンスタンティヌスの担当範囲はブリタニア~ガリア~ヒスパニアです。現代の地名では、イギリス、ライン川西のドイツからフランス及びスペインとなります。

 マクシミアヌス帝の息子マクセンティウスは面白くありません。自分の父親の部下の息子(コンスタンテイヌス)が皇帝になっているのに我慢なりませんでした。306年10月ローマで皇帝を称します。
 ガレリウスはこれを認めず、西方正帝のセウェルスに討伐を命じますが、逆に、マクシミアヌスの協力を得たマクセンティウスに敗れてしまい、セウェルス自身も戦死してしまいます。次に、ガレリウス自らマクセンフィウスを攻めますが、これも逆に敗走することとなりました。マクセンティウスは、やがてイタリアのみならずアフリカやシチリア島もその支配下に置きます。
 ※マクセンティウス関係の遺跡として、ローマに「マクセンティウスのヴィッラ Vila di Massenzio」、「マクセンティウスのバジリカ Basilica di Massenzio」等が遺っています。

 306年11月ガレリウスは、事態の収拾のために、パンノニアのカルヌントゥム(現ウィーン近郊)で会談を開き、ディオクレティアヌス帝に再登板を促しましたが、ディオクレティアヌス帝はこれを断ります。結果、復権を狙い皇帝を称していたマクシミアヌスは再度退位させられ、マクセンティウスの帝位とコンスタンティヌスの正帝も認められませんでした。そして、西方の正帝にはリキニウスが選出され、マクセンティウスの討伐が使命として課されのでした。

 一方、マクシミアヌスはコンスタンティヌスとの同盟を模索し、307年娘のファウスタをコンスタンティヌスに嫁がせます。その後、マクセンティウスと仲違いしたマクシミアヌスはコンスタンティヌスの下ガリアのトリアーに亡命しますが、310年マクシミアヌスはコンスタンティヌスが遠征中に反乱を起こし、コンスタンティヌスによって殺されます。

 306年のカルヌントゥムの会談以降も事態は収まらず、310年には東方副帝のマクシミヌス・ダイアが勝手に正帝を名乗り、311年にはガレリウス自身が病没すると、その遺領はリキニウスとマクシミヌス・ダイアが切り取ることとなりました。

(3)コンスタンティヌス V.S. マクセンティウス

 312年10月、コンスタンティヌスは本拠地(現在ドイツのトリーア)を出発し、アルプスを越えマクセンティウスに対して遠征を行いました。

 初戦はトリノの戦いです。トリノの指揮官は城外に出てコンスタンティヌスを迎え撃ちますが、蛮族相手に辺境での戦闘経験豊富なコンスタンティヌス軍には敵いませんでした。そして、トリノに入城したコンスタンティヌスは、略奪も焼き討ちもさせなかったのでした。このコンスタンティヌス軍の態度は、北イタリア全土に伝わり、ミラノ、ピアチェンツァ、クレモナ、海軍基地ラヴェンナ等の諸都市は、戦う前からコンスタンティヌス側に反旗を翻したのでした。

 ヴェローナではポンペイアヌスが奮闘しますが、これを制したコンスタンティヌスはヴェローナでも略奪行為は行わせませんでした。

 そして、キリスト教徒にとっては歴史を変えたとされる「ミルウィウス橋の戦い」が始まります。攻めるコンスタンティヌス軍4万、守るマクセンティウス軍は17万の歩兵と1万8千の騎兵を擁していたと言われています。マクセンティウスがどれほどの兵力をこの戦いに投じたかはわかりませんが、規模的はマクセンティウスが圧倒的に有利だったと考えられています。

 戦闘は、ミルウィウス橋の10キロ程度北のサクサ・ルブラという平原で両軍が激突しますが、コンスタンティヌス軍はマクセンティウス軍をテヴェレ川に追い込みます。混乱したマクセンティウス軍の多くは狭いミルウィウス橋に逃げ込んで圧死したり、テヴェレ川に飛び込んで溺死してしまいました。
 戦闘を後方で指揮していたマクセンティウスもパニックで逃げ惑う軍隊に巻き込まれテヴェレ川に落ち溺死しました。コンスタンティヌスは、こうしてマクセンティウスを倒し、ローマ帝国の西半分の支配者となったのです。(リキニウスはガレリウスの死後、東方の正帝となっていた。)

ミルウィウス橋
ローマ市内側からミルウィウス橋

 キリスト教徒の伝承によれば、「ミルウィウス橋の戦い」の前、コンスタンティヌスが進軍していると、中天に十字の光と「汝、この徴にて勝て」との文字が浮かびあがりました。コンスタンティヌスはこの幻に従い自軍の兵士に十字の印をつけさせて戦ったことにより勝利できたことを感謝して、翌年にキリスト教を公認するに至ったとされています。

(4)ローマ入城

 マクセンティウスを倒したコンスタンティヌスはローマに入城します。それまでマクセンティウスを皇帝として支持していたローマの元老院はコンスタンティヌスの要求をすべて受け入れます。
 ・コンスタンティヌスを副帝から正帝への昇格
 ・毎年の特別税
 ・凱旋門の建立
 ・マクセンティウスのバジリカ等、彼の名前の公共施設をコンスタンティヌスの名前に
  マクセンティウスのバジリカには巨大なコンスタンティヌスの坐像が置かれました。
  (このページの最初の写真)

▼ 特別税

 ローマの元老院が戦勝記念としてコンスタンティヌス帝に贈ったのがこの凱旋門です。この凱旋門はコンスタンティヌス時代のものですが、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝等の時代の装飾品も再利用されて造られています。
 また、この凱旋門は1960年のローマオリンピックのゴールとして使われました。

 右に見えるのがコロッセオです。

▼ 凱旋門
(5)西方の支配者コンスタンティヌス V.S. 東方の支配者リキニウス

 コンスタンテイヌスが西方の支配者となったとき、帝国東部は、リキニウスとマクシミアヌス・ダイアによって二分されていました。コンスタンティヌスはリキニウスと同盟を結び、妹のコンスタンティアを嫁がせました。

【312年10月当時の分割統治】
 西方:正帝-コンスタンティヌス
 東方:正帝-リキニウス  副帝-マクシミヌス・ダイア

 そして、313年2月、両者はミラノ(メディオラヌム)で、キリスト教を公認する「ミラノ勅令」を発しました。コンスタンティヌスの信仰心によるものであったことは間違いないのでしょうが、迫害帝マクシミアヌス・ダイアの領土にいたキリスト教徒を味方にするための戦略的な意図が有ったろうと考えられます。そもそも、コンスタンティヌスの支配した西方にはキリスト教徒はほとんどいなかったのす。

 リキニウスは、313年4月マクシミアヌス・ダイアをハドリアノポリス(アドリアノーブル)近郊で破り、全東方の支配者となります。

【313年4月当時の分割統治】
 西方:正帝-コンスタンティヌス
 東方:正帝-リキニウス

 やがて、コンスタンティヌスとリキニウスは対立し、314年には戦争となりました。
315年戦闘はパンノニアのキバラエという地で行われ、コンスタンティヌスの2万の軍とリキニウスの3万5千人の軍が衝突し、コンスタンティヌスが勝利しました。リキニウスは首都のシルミウムに立ち寄ることもなく、トラキアへ逃げました。

 次に、トラキアのマルディアで戦い、再びコンスタンティヌスが勝利しました。しかし、コンスタンティヌスはリキニウスを決定的に倒すことができず、妹コンスタンティアのとりなしで両者は講和しました。そして、和解を象徴的に示すため、319年には、並んでこの年のコンスルに就任しました。

 しかし、リキニウスが自身の領内でキリスト教徒迫害を始めまたため、両者は再び戦争状態に陥ります。(コンスタンティヌスにすれば、理由は何でも良かったのでしょうけど。)
 リキニウス軍:歩兵15万と騎兵1万5千の計16万5千 350隻の三段層ガレー船
 コンスタンティヌス軍:歩兵・騎兵の計12万 200隻の三段層ガレー船
            陸軍はコンスタンティヌスが、海軍はクリスプスが指揮

 324年7月3日に、両軍は再びハドリアノポリス近郊で戦いとなり、コンスタンティヌスが勝利しました。
 リキニウスは一旦敗走し、ビザンティウムに入りましたが、ダーダルネス海峡の海戦(ヘレスポントスの海戦)でクリスプス軍に敗れます。制海権を失ったリキニウスは、ビザンティウムを出、最後は小アジアのクリュソポリス近郊の戦いで敗北が確定しました。

 再び、妹コンスタンティアが仲に入り、リキニウスは命は保証されギリシアのテサロニカに送られます。しかし、翌年325年にゴート族と秘かに連絡を取り陰謀を企てたとして処刑されました。

 こうして、コンスタンティヌスは、帝国全土の支配者となったのでした。

▼ コンスタンティア
(6)唯一帝コンスタンティヌス

 リキニウスを破ったコンスタンティヌスはその勝利を記念して、ビザンティウムに自分の名前を冠したコンスタンティノープルを建設することを決定しました。324年以降建設を進め、コンスタンティヌスは330年にはこの地に定住します。

 326年7月ローマ市に入り、即位20周年を祝っています。この時、息子のクリスプスを突然捕らえ北イタリアのボラ(現クロアチアのプーラ)で処刑しました。ガリアの統治、リキニウスとの戦いで輝かしい功績をあげ、国民から絶大人気があった彼に対するコンスタンティヌスの猜疑心からだったのかも知れません。

 その後、ドナウ川流域のセルディカに拠点を置き、ゴード人との戦争を成功裏に収め、332年にはゴード人と条約を結び、ゴード人に年金を与える代わりに、ゴード人は王子アリアリクスを人質として、さらに4万人の兵員を拠出することとなりました。この条約により、ローマ人とゴード人の関係は、以後30年以上にわたって安定することになりました。

 334年にはサルマティア人にも勝利し、3万人のサルマティア人を帝国内に移住させました。また、この年には、キプロス島でカロカエルスによる簒奪がありましたが、異母弟フラウィウス・ダルマティウスがこれを倒し、カロカエルスは小アジアのタルススで生きながら焼き殺されました。カロカエルスの簒奪はコンスタンティヌスの単独帝期唯一の簒奪事件でした。

(7)コンスタンティヌスの死

 336年には、コンスタンティヌスはダキアへ遠征し、アウレリアヌス時代に失われたダキア属州を一部回復します。
 その一方で、ペルシア遠征の準備を進めていました。ローマとペルシアは、ディオクレティアヌス帝時代にガレリウスが大勝利を挙げて以降、平穏な関係にありましたが、ササン朝の皇帝シャプール二世が、キリスト教国となっていたアルメニアを占領したため、アルメニアのキリスト教徒の貴族たちがコンスタンティヌスに救援を求めてきました。しかし、コンスタンティヌスは遠征を実行に移すことはできず、337年5月22日にニコメディアの近郊のアキリオンの離宮で64歳で病没しました。

 コンスタンティヌスは、死の直前になってようやくキリスト教の洗礼をニコメディアのエウセビオスから受けました。遺骸はコンスタンティヌスの遺言によりコンスタンティノープルに運ばれ、聖使徒教会に葬られました。

 在位は31年の長きに及びました。30周年の祝典は初代アウグストゥス以来でした。

「軍人皇帝のローマ」井上文則氏著
「コンスタンティヌス-その生涯と治世-」ベルトラン・ランソン氏著、大清水裕氏訳
「ローマ人の物語ⅩⅢ 最後の努力」塩野七海氏著
「コンスタンティヌス大帝の時代」ヤーコブ・ブルクハルト氏著、新井靖一氏訳
「ローマ帝国衰亡史3 コンスタンティヌスとユリアヌス」E・ギボン氏著、中野好夫氏訳
「地図で読む世界の歴史 ローマ帝国」クリス・スカー氏著、矢羽野薫氏訳
「新詳 世界史図説」浜島書店
「詳説 世界史」山川出版 佐藤次高氏、木村靖二氏、岸本美緒氏

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