コンスタンテイヌスの家族

ローマ史

 コンスタンティヌスの家族には血なまぐさい話が伝えられています。妻ファウスタの父マクシミアヌス及び兄マクセンティウスだけでなく多くの家族が殺されます。歴史家の記述によっても、324年リキニウスに勝利して唯一帝となった彼は、傲岸になっていったとされています。それがこの家族に不幸をもたらしたのかもしれません。

1.コンスタンティヌスの両親

 コンスタンティヌスの父親はローマ帝国四分割統治時代に西方正帝のコンスタンティウス1世ですが、祖父の代になると他のバルカン半島出身の軍人皇帝同様に、その素性は低い身分でした。母親はヘレナ(ヴァティカン博物館 ヴェロネーゼのVision of St. Helen)で、小アジア北西部のビテュニア地方出身のキリスト教徒だったとも言われています(?)。
 272年(諸説ありますが、272年で統一します。)コンスタンティヌスが生まれたとき、父のコンスタンティウスはまだ20代の若者、ヘレナも23歳~25歳(329年に亡くなるとき80歳を超えていたことから逆算)でした。
 両親ともに下層民の出でしたから、コンスタンティヌスはごく普通の軍人の家庭に生まれたことになります。

 コンスタンティヌスが幼かったころ、父コンスタンティウスは中央機動軍の将校として各地を転戦していたため、彼は十代前半まではナイッススで母親に育てられました。その後、父コンスタンティウスの任務地トーリアに行ったものと考えられています。ここで、ようやく家族3人揃ったようです。

 しかし、293年コンスタンティウスが西方副帝となると、西方正帝マクシミアヌスの娘テオドラと政略結婚したため、母ヘレナは離婚されます。ディオクレティアヌスが始めた四分割統治(テトラルキア)では、副帝は正帝と婚姻関係を持つこととされていました。
 そこで、取り扱いに困った元妻とその21歳頃の息子コンスタンティヌスをディオクレティアヌス帝のもとニコメディアに送ります。人質だったとの見解もありますが、コンスタンティウスがディオクレティアヌスに頼んだとも言われています。その後都合よくコンスタンティヌスのもとに戻ることを考えると、コンスタンティウスがディオクレティアヌスに頼んだのではないでしょうか?

 母ヘレナは元々キリスト教徒で、後に、コンスタンティヌスがキリスト教を公認することとなったのには、母親とのナイッスス及びニコメディアでの生活が影響しているという考え方もあります。しかし、ディオクレティアヌスはキリスト教を大迫害した皇帝の一人です。二人がニコメディアに居た時期に、ディオクレティアヌスのキリスト教徒への迫害が行われました。ディオクレティアヌスの下でコンスタンティヌスもその迫害に参加しているはずです。事実はどうだったのでしょうか?

 305年、コンスタンティヌスはディオクレティアヌスの後任の東方の正帝ガレリウス帝の追っ手から逃れるようにして、ニコメディアを飛び出し、西の正帝となっていた父コンスタンティウス1世のもとに走ります。
 父、コンスタンティウスは306年7月25日に、ブリテンのエビグラム(現在のヨーク)で、病気で亡くなります。60歳前後の生涯でした。その時、コンスタンティヌスは34歳でした。

 コンスタンティヌスは306年の即位後、母ヘレナを「非常に高貴な女性(ノビリッシマ・フェミナ)」と讃え、324年には「アウグスタ(皇太后)」という最高級の称号を与えます。そして、ヘレナは329年80歳を超える歳で亡くなりました。

▼ ヘレナ

2.コンスタンティヌスの妻と子供たち

(1)長子クリスプス

 コンスタンティヌスの最初の子供はミネルウィナとの間にできたクリスプスです。ミネルウィナとの関係は正式なものではなかったと考えられています。コンスタンティヌスは307年にマクシミアヌスの娘ファウスタと結婚しますので、初のキリスト教徒皇帝の離婚はキリスト教にとっては都合悪かったため、ミネルウィナとの結婚が正式なものでなかったと伝えられたのかもしれません。(ギボンは「出自こそ卑しいが青春の愛の対象として正妃だった」と言っています。) ミネルウィナは早くなくなったようです。

 クリスプスは、処刑された326年に23歳とのことなので、303年頃の生まれと考えられます。つまり、コンスタンティヌスがまだニコメディアにいた頃ということになります。そうすると、当時の生活は、父コンスタンティヌス、妻ミネルウィナ、祖母ヘレナとクリスプスの四人家族だったのでしょう。ミネルウィナとヘレナの関係は分りませんが、一般的な家庭だとすると、ヘレナがクリスプスを溺愛していたとしても不思議なことではないと思います。

 クリスプスは極めて教養が豊かで、愛すべき青年であったようです。彼の師は博学のキリスト教徒ラクタンティウスでした。
 彼は317年3月1日から副帝としてガリアを統治します。その時彼は14歳(ギボンは17歳としています。)でした。319年には蛮族との戦いのためライン川沿いのリメスに派遣されて、蛮族を追い払っています。
 324年のリキニウスとの戦いでは艦隊を率いて参戦し、輝かしい戦功を挙げた人物です。
 コンスタンティヌス軍はリキニウスの居るビザンティウム(現イスタンブール)を包囲するものの、制海権はリキニウス軍が握っていましたので、コンスタンティヌスの包囲は効果が有りませんでした。この状況を打開するため、クリスプスがヘレスポントゥス海峡を北上します。この地域の潮の流れは、黒海からエーゲ海に向かっているため、ヘレポントゥス海峡の北上は容易ではありませんでしたが、クリスプスは南風を読み切り北上してリキニウス軍を見事に破り、制海権を握ることに成功しました。この結果、リキニウス軍はビザンティウムから敗走することとなったのでした。

 しかし、326年、クリスプスは突然捕らえられ、北イタリアのポーラ(現クロアチアのイストリア半島先端にある海辺の町プーラ)で処刑されました。
 クリスプスに続いて、妻のファウスタも処刑されています。ファウスタがクリスプスに誘惑されたとコンスタンティヌスに訴えたため、クリスプスを処刑したが、これがファウスタの讒訴であったことが判明し、ファウスタも殺されたのだという説があります。
 また、クリスプスの輝かしい戦功と才徳から、宮廷内だけでなく、軍及び国民の人気も彼に集まるようになっていて、コンスタンティヌスにとっては大変危険な存在となっていました。ファウスタが3人の男子の後継者を生んでおり、そして彼らはまだ幼く、コンスタンティヌスの地位を脅かす存在ではありませんでした。つまり、後継者の心配がなくなったコンスタンティヌスが自分の地位を脅かす若くて、才徳が有り、軍や国民から愛されていたクリスプスに嫉妬したのか、邪魔と感じたのだとも伝えられています。

(2)妻ファウスタ

 コンスタンティヌスの正式な妻はファウスタです。彼女はマクシミアヌスの娘で、マクセンティウスの妹です。307年コンスタンティヌスに嫁いだ時、彼女は7歳だったそうです。コンスタンティヌスは35歳でした。
 コンスタンティウスはファウスタと結婚することにより、マクシミアヌスのヘルクリウスの家系に属すこととなりました。

 なお、マクシミアヌスは、コンスタンティウスと結婚したテオドラの父でも有りました。当時、歳はいくつだったのでしょうか? コンスタンティウスの上官でしたから、まだ60代だったのでしょう。

 326年コンスタンティヌスは、息子クリスプスを突然捕らえ、北イタリアのボラ(現クロアチアのプーラ)で処刑しました。
 クリスプスに続いて、妻のファウスタも処刑しています。ファウスタがクリスプスに誘惑されたとコンスタンティヌスに訴えたため、クリスプスを処刑したが、これがファウスタの讒訴であったことが判明し、ファウスタも殺されたのだという説があります。ファウスタは高温の蒸し風呂に入れられて、殺されたと伝えられています。3男2女を生んだ妻に対する情け容赦のない仕打ちです。結局、政略結婚と後継者を彼に与えるだけの存在だったのでしょう。

 ベルトラン・ランソン氏によると、ファウスタは7歳でコンスタンティヌスと307年に結婚していますので、処刑されたとき26歳頃です。一方、同氏によるとクリプスは317年3月に14歳で副帝になっていますので、当時は23歳頃です。(塩野七海氏はクリスプスを29歳、ファウスタを中年女の40歳頃としていますが、317年に副帝となった長子コンスタンティヌス2世が乳飲み子であったことを考慮すると、307年に7歳と言うのは信用できると思います。そうすると、326年には、ファウスタは26歳頃と推測されます。)

 ファウスタの讒訴、クリスプスとファウスタの不義、若くて有能なクリスプスに対するコンスタンティヌスの猜疑心等の説があり、真相は不明ですが、この事件はコンスタンティヌスの後世の評価に影を落とすことになります。ベルトラン・ランソン氏は『皇帝伝要約』の「ファウスタの殺害は、孫の死を悲しんだヘレナの教唆によって行われたものだった」という示唆を紹介し、326年からヘレナが聖地巡礼に行ったのは嫁を殺害した贖罪ではないかとの仮説を述べています。
 クリスプスはコンスタンティヌスがニコメディアに居た時代に生まれています。父コンスタンティヌス、祖母ヘレナ、母ミネルウィナとクリスプスの四人家族です。祖母ヘレナがクリスプスを溺愛していたことが想像されます。
 また、ファウスタはヘレナを正妻の地位から追い出したテオドラの妹です。テオドラがどうなったのかは不明ですが、ヘレナがファウスタに対して憎しみを抱いていても不思議ではないと思います。キリスト教により、コンスタンティヌス、ヘレナの実情は歪められて伝えられており、事実が分からないので、こんな想像もしてみたくなります。

(3)子供たち

 コンスタンティヌスはかつてのアウグストゥスやトラヤヌス、ハドリアヌス等の賢帝と違い子供には恵まれました。処刑されたクリスプスの他には、テオドラの子供コンスタンティヌス二世、コンスタンティウス二世、コンスタンスの3人の男子とコンスタンティアとヘレナの2人の女子です。
 
 コンスタンティヌスの政権が盤石であったのは、コンスタンティヌスが唯一の正帝であり、この意味で単独統治のかたちを取っていたとはいえ、自らの息子や甥たちを副帝として、地方に配置し、ウァレリアヌスやディオクレティアヌスのように、事実上、帝国を分担統治していたためであったと考えられます。分担統治に当たったのは、三人の息子コンスタンティヌス二世(317年副帝 ガリア)、コンスタンティウス二世(324年副帝 東方)、コンスタンス(333年副帝 イタリア)と甥の小ダルマティウス(334年副帝 トラキア、マケドニア、ギリシア)でした。さらに、小ダルマティウスの弟ハンニバリアヌスも「諸王の王にしてポントゥス諸族の王」の称号を与えられていました。
 しかし、337年にコンスタンティヌスが死ぬと、一族の大殺戮事件が起きます。小ダルマティウス、ハンニバリアヌスをはじめ、コンスタンティヌスの兄弟やその子供たちが殺害されます。コンスタンティヌスの子供は生き残りますが、それ以外に助かったのは、幼少であったコンスタンティヌスの甥ガルス及びユリアヌスだけでした。
 副帝又はそれに準じる者を5人も用意したことが、この大殺戮事件につながったのかもしれません。又は、首謀者と考えられるコンスタンティウス二世が残忍だっただけなのかもしれません。

 一方、ファウスタの2女の内、コンスタンティアはコンスタンティウス2世の副帝ガルスの妻となります。ヘレナはコンスタンティウス2世の後に皇帝となった背教者ユリアヌスの妻となります。

3.コンスタンティヌスの死後の子供たち

 コンスタンティヌスの死後、一族の不幸は続きます。

(1)337年の大殺戮事件

 コンスタンティヌスは遺言状で、葬儀のこと一切を信仰心の深い次男コンスタンティウスに一任していました。コンスタンティウスの任地は東方で、兄コンスタンティヌス二世、弟コンスタンスよりコンスタンティノープルに近い位置にもありました。
 このコンスタンティウスがニコメディアの司祭エウセビウスから偽造されたコンスタンティヌスの遺言状を受け取りました。遺言状には、コンスタンティヌスが実弟によって毒を盛られたらしい旨、復讐と犯人処罰を依頼するものでした。
 この偽造遺言状により、コンスタンティヌスの弟及びその子供たちの運命が決まりました。

 殺されたのは、
 コンスタンティヌスの弟:
   ユリウス・コンスタンティウスとダルマティウス
 コンスタンティヌスの甥:
   小ダルマティウス、ハンニバリアニス、ユリウス・コンスタンティウスの長男
 コンスタンティヌスの妹婿で貴族のオプタトゥス
 都督アブラウィウス(コンスタンティヌスの第一の寵臣)

 この大殺戮の目的は、帝国統治を分担する予定であった、小ダルマティウス及びハンニバリアヌスを後継者から排除することと、都督アプラウィウスに対する嫉妬からであったろうと考えられています。

 この殺戮から逃れることができた子供は、ユリウス・コンスタンティウスの子供ガルスとユリアヌスだけでした。

 フラウィウス家の一族の大殺戮のあとで、コンスタンティヌスの息子三兄弟によって帝国領は分割されます。

(2)コンスタンティヌス二世の死

 コンスタンティヌスの死後、帝国はコンスタンティヌス二世、コンスタンティウス二世とコンスタンスの三帝によって分割統治されますが、コンスタンティヌス二世はコンスタンスに対してアフリカ属州の割譲を要求します。要求を断られたコンスタンティヌス二世はコンスタンスの領内に侵入しますが、340年3月コンスタンスに敗れ、戦いの中で惨殺されます。
 これにより、コンスタンスは帝国の2/3を領有することになりました。

(3)コンスタンスの死

 兄コンスタンティウス二世を倒したコンスタンスもその不徳と非力で民衆の信頼をなくしていったようです。そして、350年に簒奪者マグネンティウスに処刑されてしまいました。
 マグネンティウスは、ムルサ(現在クロアチアのオシイェク)の戦闘でコンスタンティウス二世に敗れ、ガリアに撤退しても敗れ続け、351年に自死しました。

(4)ガルスの死

 ガルスはコンスタンティヌス一世の弟ユリウス・コンスタンティウスの息子です。337年のフラウィウス家の一族の大殺戮の時、彼は12歳でした。幼い頃より病弱だったことにより死は免れ、イオニア地方に流刑となりました。その後、カエサリアに近いマケルム城に監禁されました。
 ガルスが21歳の時、副帝となります。東方にシャプール率いるペルシア帝国、西方はコンスタンティヌス二世・コンスタンスの両帝の死による内紛と帝国の危機にありました。337年の大殺戮で残されたコンスタンティウス二世の一族はガルスとユリアヌスだけだったのです。
 
 しかし、ガルスは残忍で軽率な性格の持ち主でした。妻に娶った皇妃コンスタンティアは、コンスタンティウス二世の妹で小ハンニバルス寡婦ですが、「たえず人血に乾いている復讐魔女群の一人」と記されるような女性だったようです。ガルスの残忍性は多くの敵を作り、結果、西方の内紛を片付けたコンスタンティウス二世の怒りを買い、イストリアのポーラで処刑されました。

(5)ユリアヌス

 ユリアヌスはガルスの異母兄弟で、337年のフラウィウス家の一族の大殺戮の時、6歳でした。ビテュニア地方に流刑となり、その後、ガルス同様に、カエサリアに近いマケルム城に監禁されました。
 ガルスの処刑にあたり、ユリアヌスもミラノに連行され死の危機にありました。コンスタンティウス二世の皇妃エウセビアが常にユリアヌスの味方になり、彼を処刑しようとした宦官達から擁護し続けました。そして、処刑を逃れたユリアヌスは、アテナイ市アカデミアの森林学園に送られ当時の哲学者たちと自由な交わりの日々を送りました。
 皇妃エウセビアとユリアヌスについては、色々伝承がありますが、辻邦正の「背教者ユリアヌス」をお勧めいたします。

(6)コンスタンティウス二世

 コンスタンティヌスとテオドラの次男です。337年のフラウィウス家の一族の大殺戮の首謀者とされ、その後の兄弟による3分割統治で、首都コンスタンティノポリスを含む東方を統治します。
 コンスタンティウス二世は、コンスタンティヌス時代は大人しくしていたペルシアのシャプールの侵略を東方に受け、西方では兄弟二帝の死及び内紛に対応しなければならなかった。
 そのような中、ガルスを副帝に、ユリアヌスを副帝にする。

「軍人皇帝のローマ」井上文則氏著
「コンスタンティヌス-その生涯と治世-」ベルトラン・ランソン氏著、大清水裕氏訳
「ローマ人の物語ⅩⅢ 最後の努力」塩野七海氏著
「コンスタンティヌス大帝の時代」ヤーコブ・ブルクハルト氏著、新井靖一氏訳
「ローマ帝国衰亡史3 コンスタンティヌスとユリアヌス」E・ギボン氏著、中野好夫氏訳
「地図で読む世界の歴史 ローマ帝国」クリス・スカー氏著、矢羽野薫氏訳
「新詳 世界史図説」浜島書店
「詳説 世界史」山川出版 佐藤次高氏、木村靖二氏、岸本美緒氏

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