Roma アッピア街道

Via Appia Antica ローマ
  •  このページでは、ローマ郊外のカサール・ロトンド Casal Rotondo 辺りからローマ市内に入るアッピア街道 Via Appia Antica についてです。普通に歩いて2時間程度と長いので、十分な時間が必要です。レンタルサイクルを利用しても良いと思います。また、Google Mapの利用、写真撮影とスマホを酷使することになりますので、予備のバッテリーを準備しておいた方が良いと思います。私の場合、暗くなるし、バッテリーが無くなるしで、ライトアップされたコロセッオが見えるまでは、市内にたどり着けるか不安な気持ちになりました。
     目的地は、クインティーリ荘チェチーリア・メッテラの墓マクセンティウスのヴィッラサン・セバスティアーノ聖堂サン・セバスティアーノ門です。

1.アッピア街道 Via Appia Antica

 アッピア街道(アッピア旧街道のこと)は、「すべての道はローマに通ず」の第一歩の街道です。
 塩野七生氏著「ローマ人の物語 Ⅹ すべての道はローマに通ず」で「アッピア街道が、いつ、どこに敷設されていったかを見るだけでも、ローマ人の統治哲学がわかるのである。」と述べています。
 紀元前312年に財務官であったアッピウス・クラウディウスが立案し、元老院が可決し、アッピウス自からが総督となって敷設を開始しました。まずは、当時のローマ領の最南端であるカプアまで、そして、プリンディシまで貫通したのは70年後でした。ローマ領の広がりに合わせて、街道を伸ばしていったのです。

 上の写真は、118番バスでクインティーリ荘を目指したものの、勘違いしてバスを降り、Google Mapを駆使してたどり着いたアッピア街道です。多分カサール・ロトンドの付近です。2300年以上前の高速道路です。道路部分は馬車がすれ違える4m以上、歩道部分が両サイドに3m、合計10m以上あったそうです。また、路は深く掘り下げ、大きい石塊、細かい砂利に粗い砂利の各層を圧縮して重ね、頑丈な玄武岩で舗装し、路肩には歩道と水路を設けました。
 ここから、しばらくローマ方向に歩いてクインティーリ荘のアッピア街道入り口に着きます。私は、「街道の女王」と呼ばれたアッピア街道に立ち大興奮でした。

 アッピア街道の左右には、こんな風景もありました。右は、誰か昔の人のお墓です。紀元前5世紀に成立した十二表法により、市壁内の埋葬が禁じられたので、街道沿いに墓がずらりと並んだのです。

2.クインティーリ荘 Villa dei Quintili

 クインティーリ荘は、アッピア街道(旧街道)と新街道との間にある広大な遺跡です。151年頃のクインティリアヌス兄弟のお屋敷で、ローマ郊外で最も広かったといわれています。コモドゥス帝(在位:180~192)は、陰謀を企てたという名目で兄弟を暗殺し、この別荘を手に入れたといわれています。

 上左の写真は、旧アッピア街道側から新アッピア街道に向かって撮った写真です。そして、右上が近づいて撮影したもので、住居などの遺跡です。この遺跡を通り過ごして、しばらく歩くと博物館があります。とんでもなく、遠いです。
 ローマパスのチェックをするには博物館までいかなければならなく、帰りに、旧アッピア街道側の受付のお兄さんに「とんでもなく遠くて疲れたよ」と言ったら、お兄さんとても喜んでくれました。

左は、旧アッピア街道側にあるニンフの神殿です。今では、モザイクがはっきりしませんが、当時はとても綺麗だったのでしょうね。

3.チェチーリア・メッテラの墓 Mausoleo (Tomba) di Cecilia Metella

 カエサル、ポンペイウスと共に第一次三頭政治の主役であるクラッススの息子ルキニウス・クラッススが、妻のために建てたものと考えられています。左の写真は、墓の外側で、トラヴェルティーノという白い石で覆われた、直径29メートルの円筒形の建物です。上部には、牛頭模様と花綱の帯状の装飾が施されています。右の写真は、建物内部の写真です。

4.マクセンティウスのヴィッラ Vila di Massenzio

  ディオクレティアヌス帝(在位:284~303)の四分割統治(テトラルキア)時代の西の正帝マクシミアヌスの息子マクセンティウス帝(在位:306~312)が建設したヴィラで、館と競技場を造営しました。写真は競技場の跡地で、幅92m、長さ520mもあり、1万人もの観衆を収容可能でした。

▼ マクセンティウス

5.サン・セバスティアーノ聖堂 Basilica di San Sebastiano

 4世紀前半に建てられ、ペテロとパウロにささげられた聖堂です。その後、ディオクレティアヌス帝の時代に殉教した聖セバスティアヌスが埋葬されました。
 聖堂の地下はカタコンベが広がります。とても広く、迷路のようになっていますが、為政者により迫害を受け、地下で生活をしなければならない苦労をうかがい知ることができます。

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6.サン・セバスティアーノ門 Porta San Sebastiano

 アッピア街道の起点です。アウレリアヌス(在位:270~275)の城壁とともに造られたものです。現在は、城壁博物館が置かれています。さらに、城壁の上は歩けるそうです。

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 聖セバスティアヌスは宗教画によく出てきます。裸体で矢を刺される絵です。とても人気のある聖人なのです。伝えられるところによると、セバスティアヌスはディオクレティアヌス帝の親衛隊長でした。自分の腹心にキリスト教徒がいたことがわかり、ディオクレティアヌス帝はセバスティアヌスを処刑します。無数の矢が放たれます。しかし、彼は矢が当たっても死ななかったのです。最終的には殉教することになるのですが、キリスト教の「奇跡」の1エピソードとなります。
 その後、1000年の時が過ぎ、ヨーロッパでペストが流行します。無数の矢を受けても死ななかったセバスティアヌスにあやかりたいと、ペストにかかっても死は逃れたいとの気持ちから、セバスティアヌスの絵が多く書かれるようになったのです。

参考にした図書
「ローマ人の物語 Ⅹ すべての道はローマに通ず」塩野七生氏著 新潮社
「地球の歩き方 ローマ」
「ローマ古代散歩」小森谷慶子氏・小森谷賢二氏著 トンボの本
「西洋美術史入門」池上英洋氏著

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